「入口」を探して / 伴田良輔

熱狂や陶酔や恍惚ではなく、ほんわかとした幸福感。一瞬のこともあれば、ゆっくりと数分間続くこともあるだろう。たくさんの人間を巻き込む出来事ではなく、非日常へと浮遊するものでもない。そこここふいに発生したり出会ったりする、体温の範囲での幸せ感を、メリーと呼ぶのではないだろうか。

日本人は欧米人にくらべて喜びを表現するのが苦手だといわれる。たしかに爆発的な歓喜のボディアクションといったものは、ラテン系の人々とはくらべるべくもない、地味で静かな日本人だ。

けれども、人間、嬉しさや喜びの感情のポテンシャルにそう差があるはずがないのだ。さまざまの感情表現があるという、その違いだけだろう。ほんわかとした幸福感、ということでいえば、これはむしろ日本人の大好きな表現じゃないかと思う。

たとえば古代神話における天の岩戸の前のアメノウズメノミコトのダンス場面では、そのあけっぴろげなダンスを見た神々が大いに笑った、といわれている。神々の笑い声を聞いた天照大神が、隠れていた岩戸を開けて外を見た時の「いったいなんだろ?」という好奇心には、日本人の「いとおもしろき」ものを他者と共有しようとする遠慮がちだがはっきりしたメッセージが読み取れる。

神話世界にまでさかのぼらなくたって、今だって地方の山村などで出会うおじいちゃんやおばあちゃんはニコニコしているし、集会所で野菜のよりわけ作業なんかをしているおばちゃんたちの陽気で良く喋ることといったらない。誰かが冗談言ったら「あははあはは、おほほっほ、うふふうふふ、」と、笑い転げてとまらない。冗談なんか言わなくても、天気が良くてイモがたくさん取れたというだけで笑い出しそうなおばちゃんたちの頬は、元気いっぱいの田舎のメリー色だ。僕は田舎生まれだから、そんなおばちゃんをいっぱい見てきた。

東京にも、そんな笑いがあるかといえば、残念ながらメリーなおばちゃんには、なかなか出会えない。

そもそも都会にはおばちゃんがあまり見あたらないのだ。家のなかで忙しくしているのかな。それともデパートのバーゲンセールで並んでいるのだろうか。都会では近所づきあいも少ないから、おばちゃんどうしで一緒に笑いあう場がないんだろう。おばちゃんたちは集って笑いあう場所を必要としているにちがいない。

おばちゃんというにはまだ若い子連れのお母さんたちはどうだろう。団地の公園でオシャレして砂場であそぶ幼児を取り囲んでひそひそ話していたりする。ある意味でこれは幸せな光景なんだろうけど、そこからは、あまりメリーな雰囲気はしてこない。

日本の子供たちがカメラにむかって必ずするピースサインには、いい気分だよ、というメッセージがいくらかこめられているような気がする。
けれどやっぱりこれも、あくまでもカメラにむかって、という限定付きである。

僕の子供の頃は、まあ田舎だったこともあって、学校の帰り道にいくらでも道草する場所があった。今の子供たちはそもそも道草なんてするのだろうか。道草ほど幸せな時間はなかったから、ピースサインなんかしなくてもみんなひと目でわかるメリーな顔をしていたはずだ。川っぺりに下りてメリー、木にのぼってメリー、よその家の庭に忍び込んでメリー。メリーさんの羊。けんかもしたけどね。

日本人は日常的な抱擁やキスをしない。日本人が他者への親しみや幸せ感を表現するのは表情の微妙な変化だったりする。微笑、目の輝き、声、ちょっとしたしぐさといった小さな変化のなかに幸せが表現されている。
「いい天気だね」
「今日はあったかいね」
といった挨拶のような会話のなかにこそ、日本的メリー感は表現されていると思う。朝の一杯のコーヒー。出会いがしらに好みのタイプとすれちがったとか、茶柱が立ったとか、飛行機雲を見たとか、そんなささいなことを、案外日本人は見のがさないで、幸せ感としてゲットしている。それはたぶん俳句のようなものだ。

居酒屋やレストランでの若者や大人の集団的嬌声、歓声、大声には、繊細な日本人の感性の裏返しともいうべき鈍感さが渦巻いている。これをメリーとはいうまい。電車の中でひたすら眠り、昼間の学校や会社では静かな日本人が、夜アルコールがはいってから目覚めたように吐き出すこの集団的狂躁は、外国人にはクレイジーな光景に写るだろう。

いつでもメリーでいられる子供たちとちがって、大人たちは、メリーへの入口を自分でさがさなければならない。その入り口も人それぞれだ。しかし見つけた場所を他者に押し付けるのはみっともない。

メリーは子供の領域にある何物かだ。そこへの入り口は、世界のそこかしこに空いているが大人になれば見つけるのが難しくなる。

その入り口からはぐれてしまった子供もいる。そうした子供を入り口に連れて行ってやる大人も必要だ。自分のメリーをさがすことばかりにかまけている大人だけじゃしょうがない。

メリーは男女関係とも関わっている。これはある程度、大人にしか感じられないメリーでもある。子供たちには、こんなメリーを味わえるんだから大人になるのもまんざら悪くないことだと、教えてやろう。それは「いけないこと」なのではなく、「人生でもっとも楽しいこと」の一つなのだと。

考えてみたら恋愛は、いやもっとはっきりいえば性愛は、あの楽しかった道草に似ているかもしれない。いろんなところにのぼったり下ったり…。自分の体が入口なんて、素晴らしいメリーだね。体が遊び場になり、相手を楽しませることができるなんて、子供のころは思ってもみないことだから、これを「発見」した時は本当に驚いたものだった。そうやって、子供から大人へ、ソロリソロリと移行していったわけである。大人に
なった、と思い込むことに大きな役割を果たしているこの行為が、しかしじつは最も子供っぽい楽しさ、子供のころのわがままな気分に満ちていること、そこが面白い。

ということはつまり、性愛生活が充実している大人ほど、子供心を失っていないということになる――、というほど単純なものではないだろう。要は、その行為の中でいかに自分も遊び、相手も遊ばせているかだ。
メリーさんの羊が姿を見せたかだ。

ここにも空間の問題はからんでいる。ラヴホテルなるものが日本の都市周辺に林立するようになったのは、家の中に性愛空間がないせいだ。子供のころ「あそこはいったい何をする場所なんだろー」と思って眺めていた怪しい建物は、世界に冠たる性のキッチュ・パラダイス。モダンもポストモダンもありゃしない、究極のインスタントでマニエリスムなアーキテクチャーはある意味で非常に面白いけれど、時間制限つきのラヴというのは、つらいものである。メリーさんの羊が出かかったところでそそくさと逃げていく…、そんなわびしい空間だ。

部屋の中でイチャイチャしてばかりはいられない。町へ出よう。電車を下りて、普通の歩調でゆっくり歩ける町、立ち止まって空を上げてても人がぶつかってこない町、そういう町じゃないと僕は生きたここちがしない。だから東京ではいつも路地のある下町を住居に選んできた。

坂道、裏道、石段、人の知らない近道、ふいに出てくる猫、そういうものがじつは都心にもたっぷりとあることを知ってはいる。あった、というべきなのか、今もあるのか、そこはむずかしいところだ。麻布や赤坂、六本木は、その名前からしてかつてそういうゆったりした町だったことを表している。でもふと腰をあげてそこまで散歩に行こうというには、東京は広すぎる。

魅力的な本屋と、喫茶店と、車のこない坂道があれば、一日すごせる。けれど東京の公園には、何も期待できない。犬も、ボールゲーム(僕の場合はペタンク)も、あらかじめ看板で「お断り」している公園ばかりの国なんて見たことない。犬が歩けばお断りの看板に当たる。安全第一、事勿れ主義の公園には、メリーな笑顔を持って行きようがない。犬が笑ってないのです、東京では。

そこがメリーな町かどうかは、子供でも大人でもなく、犬の表情でわかるのかもしれない、なんていう結論へと、たどりついてしまったようだ。


[はんだ・りょうすけ / 作家]