朝日新聞 be フロントランナー
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笑顔を集めて世界に幸せを
アートディレクター 水谷孝次さん
愛用のカメラを手に、メリー・プロジェクトの
アートイベントでスタッフとスマイル=東京都渋谷区
北京五輪の開会式で、世界中の子どもの笑顔を
プリントした傘が舞い、スタジアムは歓声に包まれた。
80年代のバブル期を駆けたグラフィックデザイナーが、
いま目指すのは笑顔の写真で人々を幸せにすることだ。
――――MERRYPROJECT(メリー・プロジェクト)は、どんな活動ですか。
人々に「あなたにとってMERRY(幸せ)とは?」と問いかけ、笑顔を撮影させてもらう。その写真に一人ひとりのメッセージを添え世界に発信するのでコミュニケーションアートと呼んでいます。
阪神大震災後の神戸や、同時多発テロ直後のニューヨーク、途上国など323カ国・地域を訪ねて約3万人の笑顔を撮ってきました。写真集やパネル、DVDなどにして発表しています。66年の愛知万博にも参加し、会場で映像を表示するなどしました。
――――北京五輪のスタジアムいっぱいに、子どもの笑顔の傘2008本が開きました。
昨夏、開会式を演出する映画監督の張芸謀さんが、国も地域も肌の色も違う子どもの笑顔を探していると知ったこあった。とがきっかけでした。北京五輪のテーマ「一つの世界、一つの夢」は、まさに90年代から考え続けた僕のテーマでも
世界中の、特に途上国の子どもたちこそが、全世界が注目する五輪で日の目を見るべきだという思いに突き動かされ、組織委員会に直接、提供を申し出たんです。1644枚の写真を送り、1100枚以上が使われました。
―――広告が本業ですね。
グラフィックデザイナーとして夢中で80年代を駆け抜けました。90年代に入って旅行
したアメリカで、パスに乗り合わせた少女たちの自然な笑みに思わずカメラを向けた。
作りものでない笑顔の美しさにアートの原点を見た思いで、「Merry」という題の写真集にして60年に発表しました。メリー・プロジェクトが本格化したのは、それからです。僕は人を幸せにしたくてデザインの仕事を始めた。何か新しいもの、新しい価値を創造して発信し、人の心を励かすのがデザイン。だから、この活動もデザインのひとつだと思っています。
――どの笑顔も、とても魅力的です。
2台のフィルムカメラで撮影しています。「どんなことがメリー?」って話しかけながら1合日で撮影。相手がほっとしたところで2台目のシャッターを切る。すると自然な表情が撮れます。あと、相手はどうも僕の顔を見ると安心するみたい。幼いころから人に「おまえの笑顔はいいね」ってほめられた。どこでも撮影していると人が寄ってきちゃうんです。
―――印象に残る撮影地は?
途上国ですね。例えば年に行った南アフリカ。親を工イズなどで亡くした孤児を撮影した時は、笑顔の美しさに圧倒された。「幸せとは?」と聞いたら、「健康」「食べること」「笑うこと…….そう答える彼らの笑顔に、生半可な同情なんて吹き飛ばす、ものすごい生きる力を感じました。途上国に比べて恵まれているはずの日本の子どもたちの笑顔が、世界中で一番撮りづらい。これって、どういうことなんだろうと、時々考えさせられるんですです。
少年の思いで「メリー」を探す
顔をくしゃくしゃにして、笑う。知らず知らずに、こちらまで笑みがもれる。
・「それこそが、メリー・プロジェクトのメッセージ。笑顔が笑顔を呼び、幸せの輪がつながるんです」
笑顔の裏には、執念にも似た情熱がある。昨年末に五輪開会式の準備で中国を訪れた時も、「こうと決めたら、自分でもしつこいと思う」という粘りで困難を乗り越えた。
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北京で激論
「肖像権の問題がクリアできない」「すべての子どもたちの戸籍抄本と出生証明書なども提出を」
北京市内の会議室で、法律家数人に囲まれた。提供する候補の写真は数千枚。要求はとても現実的とは思えない。
「撮影時に全員、2次使用の了解を得ている」などと説明しても、議論は平行線のまま。総演出を手がける張芸謀さんに、提供を申し入れてから4カ月が過ぎていた。解決の糸口さえつかめず、時間切れで一人ホテルに戻った。あきらめきれず、その夜、張さんに手紙を書いた。「国も人種も肌の色も関係ない。笑顔で世界がつながることがテーマの五輪で、法律が壁になるのはおかしい。一緒にやろう」。A4用紙10枚の熱い思いは、張さんの心を動かし、かたくなだった法律家も最後は黙った。70年安保闘争の洗礼を受けた学生時代。専攻は電子工学で、卒業後はコンピューターメーカーなど電機業界に進む選択肢もあったが、漠然と「これは自分のやりたいことじゃない」と思っていた。絵が好きで染め物職人になろうとしたこともあった父に絵を描く基本を教わったこともあり、「デザインで人を幸せにしたい」と直観的に選んだのが、グラフィックデザイナーの道だ。飛び込んだ広告界は、厳しい競争に勝ち続けなければ生き残れない。がむしゃらに働いた。国内外のデザイン賞を数多く受賞。次第に認められて独立した。80年代以降、スイスの腕時計スウォッチのポスターや、ゼリー飲料ウイダlinゼリーのパッケージデザインなど代表作も生んだ。「億単位の仕事の海で、おぼれないよう必死に泳いだ。駅張りポスターの7~8割が自分の作品だったこともある」
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少し先読む
だが、バブルに沸く業界で徐々に息苦しさを募らせていく。
数億円のギャラを得ながら片手間仕事の米国大物スター、ピンクのタキシードを着せられる夜会、信頼していた人間の背信――。
狂乱ともいえる日々の中で、少しずつ精神はすり減っていった。
「もうたくさんだ。こんなことがしたかったんじゃない」。好景気は泡と消え、事務所を仕切り直して1人になった。
空っぽになったと思っていた自分の心をのぞくと、少年の時の「人を幸せにしたい」との思いが、まだ手つかずで光を放っていた。
広告の仕事を続けながら、プロジェクトに心血を注ぐ。
世界中で撮影してきた輝く表情を持つ子どもたち。
「彼らが成長してもその笑顔を失わないために、デザインに携わる自分に出来ることは何か」を探り続けたいという。
「本業で、なんとか活動費を捻出している状態」だが、篤志家のように見られるのは、本意ではない。
「いつだって、時代の少し先を読んで動いてきた。時代が『メリー』を求めているんです」。言い切る顔にはクリエーターの鋭いまなざしがあった
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平和な世界めざすのが人生
――学生時代にフォークソングを歌い、プロの歌手を目指そうと思ったこともあったと聞きました。
ギター抱えてね。「ロバート・ケネディの歌」を自作して女子大の学祭を回ったりして、人気があったんですよ。
「井上陽水よりいい」とおだてられ、ちょっとその気にもなりました。
ロバート・ケネディ暗殺について書かれた新聞記事を読んだ日のステージでは一層、歌に気持ちが入った。
すると、いつもはざわついている会場が水を打ったようになって、僕の歌を聴いてくれた。万雷の拍手。感激しました。
「気持ちを込めれば人に伝わる。人の心を揺さぶるような表現を仕事に」と決意したのは、その時です。すっぱり電子工学の道は捨てました。
―――笑顔を追い求める原点はどこにあるのですか。
第2次大戦中、父は南方戦線で障害を負い、染め物職人になる夢を断たれた。
心にたまった澱をはき出すように母につらくあたり、家は暗く、重たい空気に包まれていた。
子ども心に「戦争が父を変えてしまったんだ」と感じた。どうにかして家族を、世の中を明るくしたいと願った。
そんな思いがメリー・プロジェクトにつながっていったのかも知れません。
――そんなお父さんが、グラフィックデザイナーへ導いたのですね。
重苦しい父だったけど、好きな絵を教わりながら2人きりで過ごす時間だけは、実に穏やかだった。
――――メリーな時間だった?
そう。根は明るい人だったようです。戦争のせいで父はメリーじゃなくなった。平和で恐れのない世界を目指すことが、一人ひとりのメリーな人生に結びつくと、僕は信じています。
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異色の社会クリエーター
社会起業家や企業の社会的責任(CSR)などが注目されて久しい。メリー・プロジェクトを側面から支援する電通の寺尾聖一郎さん(44)は、水谷さんを「CSRを模索する企業に魅力「ある活動を提示するソーシャル・クリエーターの先駆けだ」と位置づける。
「まさか彼がこんな活動をするとは思ってもいなかった」と話すのは、日本デザインセンター時代の上司だった加藤巧さん(66)だ。
「異色の経歴だったし苦労も多かったはず。その分、ギラギラしたすごみがあった」と振り返る。
90年にフランク・シナトラを起用した全日空の広告キャンペーンなどで一緒に仕事をした電通の山本裕さん(60)も、最初は「徹底して作り込んでいく広告と正反対の、随分大胆なことを始めたな」と驚いた。しかし、活動に打ち込む姿を目にするうち、「手を加えないことが、彼なりの新しい表現なんだと感じるようになった」という。
20年来の友人で『流行通信』のクリエーティブ・ディレクターなどを歴任した片桐義和さん(62)は、「自分が動いて人を動かす。彼はそれを体現する根っからのクリエーターだ」と指摘する。水谷さんは、商業活動の最先端にあるグラフィックデザインと社会貢献活動を融合させた新しい価値を創造したのかもしれない
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今も広告ビジネスの最前線に身を置く。常に「何か新しいもの」を探している=東京都港区の水谷事務所
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プロフィール
水谷孝次
名古屋市生まれ。日本デザインセンターを経て83年、水谷事務所を設立。99年から「MERRYPROJECT」のアートイベントやパフォーマンスを国内外で開催。(写真は89年に手がけた広告キャンペーンの出演者で、音楽プロデューサーのクインシー・ジョーンズさんと米ハリウッドのスタジオで)
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